愛はどこにあるか?

 

ボンソワ.

えび・いか明太・ホタテゴハンヌです。

自カプの話をしよう。

 

 ぼくはおめざから大爆睡まで、日がないちにち自カプについて考えることで、過剰摂取した糖分を脳で消費している。ついでにジムにも通っている。無限走りや無限泳ぎだけでは筋肉はつかず、やはり筋肉がないと人間は無理、筋肉をつけろ、筋肉は裏切らない、スクワット普通にしてますよね、などの言葉を筋トレ大好きトレーナー女史から賜ったので、その通りにしたら腿が死に、立ったり座ったりができなくなった。

 

 自カプの話をしよう。

 ぼくがときどき考えているのは、自カプがどの愛の次元に漂っているのかということだ。正直エッチなことばかり考えていたいが、そういうことをおおっぴらにした時点でぼくはさまざまなにんげんから見放され、インド洋とかに流されるので、しょうがなくそういうことを考えている。エッチなことを考えていないのではない

 

 アストラル・ライトを知っているか?

 神智学の扉をじゃっかん開いているにんげんならたぶんわかる(信ずるものにゆらぎのある人間はなるべくこのへんに近づかないこと)。アストラル・ライトは物質の世界に存在するエネルギーよりも高次のエネルギーであり、世界の内側から発している光のようなものであるという。ざっくり説明すると、精神の世界(≒魂)におけるエネルギーということになる。この精神の世界のエネルギーというのはアカシック・レコードと同義なのかもしれないという見解をぼくは持っているが、そこまで詳しくないので(専門がちがーう!)、プロの人には刺されるとおもう。しょうみなはなし、アカシック・レコードは世の中のすべての事象を包括するアマリニモ・チート記憶概念なので、世の中のいろいろ目につくものとか目につかないものは、とりあえずアカシック・レコードに入れておけばオッケーな予感がする。刺される予感も同じくらいする。

 で、ぼくはこのあたりの話をいっさい信じていない。

 

 自カプの話をしよう。

 自カプの愛のレベルをはかりたいということだけれども(これを最初に書くべきだった)、そのためには自カプがそれぞれどの次元で恋愛をしているのかを考えねばならない。自カプというのはもちろん羽風薫くん×神崎颯馬くんのカポ林檎のことをさす。おいしいね。

 ぼくはどちらかといえば羽風薫くんは精神の次元で、神崎颯馬くんは肉体の次元で恋愛をしていると考えている。颯馬くんのほうが説明がかんたんで、きほんてきだいたい彼は『健全な肉体にこそ健全な魂が宿る』という理念を体現したような人間であり、彼自身が思ったとおりの生き方をしている。つまり精神と肉体のあり方に乖離がないのだ。そのあたり、羽風薫くんはだいぶちがう。なんかむずかしい事情のなかで生きてるので、本当に思っていることと行動が食い違ってしまっているのがかわいそうで萌えなのだ。彼は誰にも内緒で、一人きりで自分の精神を慈しんであげているので萌えなのだ。なんか、薫くん絡みのイベストで彼の独白が多すぎて大丈夫なのかなってなるのはそのせいなのだ。わかるのだ。だから自カプの恋愛次元は違っている。それでいて付き合ってるのはあまりにも"""強"""では!?オタクはそういうことしか言えないので"""弱"""なのだが、自カプの愛が烈火の如くであればオールオッケーなので生きていける。燃えろ!!!!!!!!

 

 ひとまずそういうオタクの"感情"は置いておき、恋愛の次元がどこまでも離れている自カプが、なにゆえ自カプたりうるか、そういうことを考えてみたい。

 精神の次元で恋愛してる彼氏風薫くんは、目に見えないもの、ふわふわの愛……♡とかほわほわのラブ……♡とか、そういうものに縋って恋をしているのだと思う。先述したアストラル・ライトの世界でも、彼は恋を続けることができるというわけだ。それは生まれ変わってもずっと一緒、君と恋をするために生まれてきた、みたいな乙女的思考に他ならぬ。憧れのスターダム、私たちみんな小さな星、輝くために生まれてきたの 彼が恋する目的が精神の充足であることはこれまでのあ…さ……るス!のおはなしでも語られている。たぶんぼくたちが思っているよりずっと、彼はママみに飢えているというか、よちよちされたい願望がつよいのだ。そこで与えられたのがママみステータスが底辺ぶち破ってる神崎颯馬くんというのが一見つらみであり、実は自カプのミソなのだが、この話はほんの少し後にまわす。

 一転、彼女のほうは存外ドライな恋愛をするタイプなんじゃないかなーと思っている。好きにはなるし、誠実ではあるけど、それは今生限り(つまり身体がそこにあるまで)の愛なので、わりとサッパリしている。彼はたぶん魂の世界を信じない。そのぶん愛を燃やすための行為としてのスケベに前向きであるという解釈をしているため、ぼくの思う神崎颯馬くんはけっこうエッチがすきだ まちがいない ただ彼も愛されたがりではあるので、そこが唯一薫くんと噛み合うところなんじゃないかなとぼくは思うのだ。きほんてきいろんなにんげんから愛されて生きてきた彼は、自分が愛されることがすっかり当たり前で、それが『普通』になってしまった。まあ神崎家のくわしいはなしが明らかになってないので、このあたりは今後のストーリーで変わってくるかもしれないが(母上と離れ離れで寂しかった発言・喧嘩祭)…………

 つまり自カプは、そこに至る道筋が違えど求めるものが同じであるため恋愛ができるのだ。愛され足りていないから愛されたい、愛されることに慣れきってしまっているから愛されていたい、という違いだ。異なる始まりや里程標を辿り、しかしおなじ望みに辿り着くのが彼らだったということだ。それは、さだめ………勘のよい女はうすうす気づいているかもしれないが、この理論でいくと自カプは凸と凸または凹と凹なので、じょうずにフィットしないのではないかと心配になる。そこは大丈夫なのだ。エッチの時はちゃんと役割があるから……………(……………)……………………自カプのエッチなコンテンツをください

 ここまで書いて勝手に気持ちよくなってしまったが、もちろん自カプの解釈は人それぞれでよい。というか、そうでなければ俺は死ぬ。自由にしていいってのはムチャクチャするんじゃなくて 譲れないことガチでしろってことだって森園わかなちゃんも言ってる。お前の解釈や、お前の同人でいつでも殴り倒してくれてかまわない。ぼくは金庫をブレイクしてウスイブックを購入するだろう。そしてこのアーティクルは3日後には忘れ去られているので、ぼくの解釈が後日ブレ・ブレになっていても黙ってサルティン・ボッカなどを召し上がっていてほしい。クリスマスにおすすめだ。

 

 こんかいはこのへんでおしまいだ。

 次回があるかはわからんが、書きとちゅうの記事があることだけは、お伝えしておく。

 では、よいクリスマスをどうぞ。

 

  うみ・マドレ犬・くるみパンヌ